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日本鍼灸師会50年の歩み その2

(39ページから44ページまで)

日本鍼灸師会の足跡

§昭和25年〜30年

 設立後の本会の動きは目覚ましいものがあった。

 昭和25年11月30日に本会を設立、26年3月に日本鍼灸師会会報第1号を発行、5月には社団法人許可、10月には基本方針の一つである鍼灸の科学化をめざして日本鍼灸治療学会を立ち上げ、10月20日〜21日の両日、慶応大学医学部講堂で第1回治療学会を開催した。

 この日本鍼灸治療学会については、別稿で相馬悦孝氏が執筆されているのでご参照いただきたい。

厚生省後援の第1回鍼灸学術講習会:

昭和27年1月26日には、厚生省後援の第1回鍼灸学術講習会を開催して、鍼灸師の資質の向上に着手した。

 この厚生省後援の鍼灸学術講習会は、医師と鍼灸師を講師として招き、医師にはその時々の医学の最新情報を講義していただき、鍼灸師には鍼灸に関する臨床面での講義をしていただくことにより鍼灸師の資質の向上を図ることを目的としたものである。

 平成12年5月の現在まで、48年数ヶ月間毎月1回も欠かさず開催して通算581回にも及んでいることは本会の誇りである。この厚生省後援の学術講習会のことについては稿を改め加島郁雄氏が別に執筆されているのでご参照いただきたい。

二代会長に元厚生大臣、相川勝六先生を推戴:

 昭和27年3月2日の定期総会で初代の樋口鉞之助会長が勇退し、元厚生大臣の相川勝六先生を会長に推戴することになった。相川先生は、元は内務省畑出身で、宮崎、高知、広島、愛知の県知事を歴任され、昭和16年には厚生大臣を務められた。厚生大臣当時、漢方鍼灸術の研究のため、東亜治療研究所を国立として設立され、戦後、板倉武医博を所長として迎えた財団法人東方治療研究所はその後身である。以来、西洋医学とともに漢方鍼灸術を興隆せねばならないことを持論としておられ、鍼灸術とは誠にご縁の深い先生である。昭和22年のGHQの危機にも陰で大変なご尽力をいただいたが、この度斯界多難な秋に際し、業界のため陣頭指揮を取っていただくことになった。

日本鍼灸新報第1号を発行:

 同28年4月1日には、日本鍼灸師会会報を改題し、日本鍼灸新報第1号を発行した。

日鍼会の門標とポスターを作成:

 同28年12月初旬に日鍼会の門標とポスターを作成して会員に配布した。この門標は、縦1尺5寸、横3寸5分の琺瑯製で、上部5分の1は白地に黄色の十字(赤十字、緑十字に習って黄十字とした。)のロゴを配し、下部5分の4は緑地に白抜きで社団法人日本鍼灸師会々員章と記したもの。

相川勝六会長から花田伝会長へ:

 昭和30年4月の総会で第二代会長の相川勝六会長から花田伝会長ヘバトンタッチされた。

§昭和31年〜40年

会立 日本中央鍼灸専門学校の設立:

 昭和30年4月の代議員会・総会で日本鍼灸師会会立の鍼灸等養成施設の設置を決議したのを受けて、会員(主に東京都鍼灸師会会員有志)の日掛けや月掛け貯金の協力を得て、それを担保に資金の借入を行い、昭和3年3月ようやく日本中央鍼灸専門学校の校舎が落成し、開校した。理事長には花田伝氏が就任した。

東京大学に鍼灸の研究を委託:

 昭和31年8月、東京大学医学部にて鍼灸について科学的研究がされたのをきっかけに、昭和32年4月の代議員会・総会で若干の予算を計上して東大物療内科に委託研究をお願いすることを決定した。

 昭和33年4月には、その成果の一部として、鍼灸施術が正常ラットと脳下垂体を摘出した場合との比較研究結果が温泉気候学会に発表され、日本鍼灸治療学会誌(第7巻第号)にも報告された。昭和34年も引き続き鍼灸の研究を委託し、35年には東大医学部の中に鍼灸研究会が発足され鍼灸に関する研究がされるようになった。また、37年5月からは東大物療内科と本会とが喘息に関する共同研究を開始し、38年11月からは現代医学的立場から鍼灸の研究を東大で開始された。尚、東大での委託研究は昭和44年度までの12年間続けられた。

保険獲得期成同盟:

 昭和33年1月10日九州連合は、全国各都道府県師会長及び関係者に対し檄文を発送して、九連が企画している健保に関する猛運動の徹底と全国的団結を期するため速やかに全国業者大会の開催を訴え協力を求めた。2月7日、九連代表が上京したのをきっかけに、日鍼会、全鍼連役員合同協議会が参議院会館で開催され、慎重審議の結果、日鍼会、全鍼連が母体となって新たに全国的な保険団体を結成する。そのために日鍼会、全鍼連ともに総会を2月25日に開き、総会後引き続き保険獲得運動業者大会を開催することが決定された。

 この決定に基づき、2月25日、衆議院会館にて保険取扱推進全国業者大会が開催され、日本保険獲得期成同盟(略称、日鍼保険同盟)の発足を決定し、名誉委員長に小守義勝氏、委員長に花田伝氏、副委員長に岡部素道氏、渡辺政一氏を選出し、大会宣言及び、柔道整復師の保険取扱いと同じような行政措置を実現する運動方針を決定した。

花田会長から岡部素道会長へ:

 昭和33年4月1日の定期代議員会・総会にて第三代会長の花田伝氏から岡部素道会長にバトンタッチされた。尚、花田伝氏は日鍼会と全鍼連の保険取扱い者からなる日鍼保険同盟の保険推進運動に主力を注ぎ挺身することになった。

日本保険鍼灸マ師会結成:

 全国業者の切実な熱望で発足した日鍼保険同盟は直ちに活動に入り、楢橋渡代議士のご尽力により関係国会議員懇談会が開かれ、世話人議員ができて今後の運動が推進されることになった。また、自由民主党政務調査会でも取り上げられ小委員会が作られた。その後、関係議員の熱心なるご尽力によって保険取扱い実施の見通しを得るに至ったので、昭和33年12月11日に熱海市の宝金荘において日鍼保険同盟の大会を開き、発足当時の予定の通り受け入れ体制を整えて次の段階に入るため、同盟を改組して日本保険鍼灸マッサージ師会(略称、日保会)を結成して、会長に花田伝氏を選出した。

 なお、当日は更に、日鍼会、全鍼連、日保会の3団体が相互に連携して全業者一丸となって、今後解決すべき諸懸案に対処するための連合体として、全国鍼灸マッサージ師会連盟を結成して、会長に小守義勝氏を選出し、次期参議院選挙の全国区に業界代表候補者として花田伝氏を推薦、一致協力し当選を期することを決定した。

 尚、昭和34年に実施された参議院選挙に、業界は全力を挙げて花田伝氏を応援したが残念ながら一歩及ばず惜敗した。

鍼灸単独法と教育年限延長を陳情:

 昭和37年参議院の改選に当り、日鍼会は、自民党の喜多一夫氏を推薦し、一方、PT、OT士法制定をめぐって、鍼灸師を医療の中に組み入れる方策を検討した。そのため法制小委員会をつくって一時は鍼灸物療師法(仮称)の成立を目指して検討したが、幾度となく慎重に討議された結果、鍼灸が現行医療体系に入って行く時には当然そこに医師の指示に従うという従属の問題が出てくる。しかし、鍼灸はあくまで東洋医学の一分野であり、そのうち鍼灸を専門に行うのが鍼灸師であるべきで鍼灸単独の身分法を制定することがより重要であるとの結論に達した。これを受けて翌昭和38年に、「あん摩師、はり師、きゅう師、及び柔道整復師法」は多くの業種を雑多に混在させでいるので、本来あるべき各業種の独自の進歩を妨げる要因と成っている。このことから、これを分離し、各業種がそれぞれの進歩発展を図るべきとして鍼灸師法の制定に向けて関係当局に再三に亘り陳情をした。

 内容としては、鍼灸と他業種を切り離すこと、及び鍼灸師の教育年限を3年制とし、1年程度のインターン制を設けて資質の向上を図ることが主な内容であった。

第1回国際鍼灸学会の開催:

 本会及び日本鍼灸治療学会主催の第1回国際鍼灸学会(第15回治療学会併催)が東京の上野文化会館において鈴木善幸厚生大臣、武見太郎日本医師会会長、ジャンジレーフランス鍼療協会会長など多くの来賓のご臨席を仰ぎ、昭和40年10月18日〜20日の3日間盛大に開催された。

 特別講演は、金沢大学教授の石川太刀雄先生の「内臓体壁反射」、東京大学教授大島良雄先生の「鍼灸治療における診断の自動化に関する研究」の2題で、外国人招待講演も21題あった。3日間の参加者は、外国から100名、国内から700名の合計800名で、その他、名古屋、大阪、神戸でも分科会が開催され、延べ1,300名がこの分科会に参加した。日鍼会が総力を結集して開催した第1回国際鍼灸学会は大成功を収めた。

 一方、国際鍼灸学会開催に関連し、経絡経穴の部位、及び経穴名の国内外の統一を行うため、昭和40年4月に第1回国際経絡経穴委員会を開催し、統一のための基本事項を決定した。また、日本鍼灸治療学会に日本経穴委員会を設置し、その後の経絡経穴問題を検討することになった。なお、この国際鍼灸学会や国際交流のことについては、井上慶山氏が別稿で執筆されているのでご参照いただきたい。.

§昭和41年〜50年

本会の鍼灸研究に対して厚生科学研究補助金交付される:

 昭和41年6月1日、厚生省から日鍼会に対して厚生科学研究補助金が交付された。研究の目的は、「神経痛(形態学的変化のないもの)、慢性胃腸疾患で近代的治療が効を奏しないものに著効がみられるものが多く、近時欧米先進国においても注目され、その作用機転等についての研究が盛んになってきた。この点について、わが国及び先進諸国の従来の研究を集大成し、さらに鍼灸の適応症及ぴ作用機転に研究を進めるもの」であり、概要については「鍼灸の臨床成績を集大成し、さらに東大病院と提携し、その治療効果の収集と再検討をした」ものであった。

鍼灸の保険取扱いに関して初めて具体的な内容の保険局長通知が出される:

 昭和4年9月18日、保発第32号厚生省保険局長通知が出され、同年10月1日から同意書に代えて医師の診断書でも保険が扱えるようになった。また、対象疾患は神経痛、リウマチの2疾患であったが、頚腕症候群、五十肩、腰痛症等の慢性的な疼痛を主症とする疾患が類症疾患として認められた。その他、今まで認められていなかった往療料についても治療上真に必要があると認められる場合には支給されることになった。

 この通達の意義は非常に大きく、日鍼会、日保会、全鍼連の協力体制と日鍼会名誉会長の相川勝六先生をはじめ、中野四郎、中山マサ、大坪保雄先生等、各議員の強力なご支援並びに厚生省の熊崎保険局長等のご理解により達成できたものである。

 この局長通達によって、今までは内簡、書簡でしか示達されなかった鍼灸の保険取扱いが、日陰者から表街道に出ることができたのである。この意味からこの通達は同意書問題その他に十分目的を達せられなかった面もあったが、厚生省が鍼灸の保険取扱いを通達で正式に認めた最初のものとして極めて意義深いものである。

岡部会長から木下晴都会長へ:

 昭和46年4月15日開催の定期代議員会・総会で創立以来大奮闘された岡部素道会長が勇退し、木下晴都氏が会長に選任された。

 木下会長はまず会務を円滑に運営するために会務運営規則を作り、理事の役割分担と責任を明確にした。さらに法人として常備すべき全国会員名簿を整備し発行した。

はり麻酔世界に発信:

 昭和46年5月から10月にかけて、エドガー・スノー氏やニューヨーク、タイムズのレストン記者、エール大学のアーサー・ガルストン教授などが、中国で見学、或いは体験した中国の鍼灸治療、並びに鍼麻酔の現状を詳しく報告し、その記事は世界中を駆け巡り大きな衝撃を与えた。

 日本でも新聞、週刊誌、TVなどが次々と鍼灸治療や鍼麻酔の記事を報道し、多くの医学者や国民にも鍼への関心を高め、いわゆる鍼ブームを巻き起こした。

鍼灸独自の料金算定が確立:

 昭和47年2月1日より診療報酬点数表の改定が行われたので、これに呼応して振興議員連盟及び渥美顧問のご支援によって、かねてから進めていた料金改定運動を一層強力に推進した。2月10日自由民主党本部503号室で開かれた世話人会では、鍼灸独自の算定を設けることについて当局と相当強い折衝が行われ、更に2月25日の自由民主党社会部会で最終案が決定されたという、強力な追い風もあって、11年ぶりに料金改定が実現した。

 昭和47年2月28日、保険発第22号厚生省保険局医療課長通知により、3月1日から施術料金が改められ、今までマッサージ点数に関連していたものを打破して鍼灸独自の算定が出来たことにより施術料金が一挙3倍になり、また初回加算の新設とともに施術回数も6ケ月65回まで認められることになった。

信用保証協会の信用保証:

 昭和47年には中小企業信用保険法改正に伴い、鍼灸施術所にも適用されるよう働きかけを行い、8月から鍼灸の施術所が含まれるようになり、鍼灸師も信用保証協会の信用保証が受けられるようになった。

生活保護法の医療扶助:

 昭和48年4月からは、設立時の目標の1つであった生活保護法の医療扶助に鍼灸が認められることになった。この医療扶助については鍼灸は意識的に除外され、また陳情に対する回答はいつも法律的な改正が必要という理由によって達成できなかったが、野田卯一代議士の格別なご尽力によって、法律的な改正をしないで行政的に解決する方法が検討され、健保に準じた料金、回数による協定書の内容が決定されたので、都道府県知事(指定都市市長)と各鍼灸師会との間で協定を締結して実施することとなった。

日本経穴委員会の発足:

 昭和48年7月に木下晴都日鍼会会長と芹沢勝助教育大教授が世話人となり、鍼灸関連11団体に呼びかけて日本経穴委員会を発足させた。昭和49年月には経絡経穴国際委員会が開催され、国際的統一基準を決める第一歩を築いた。昭和50年には文部省の総合科学研究費の助成を得て、その年の10月に経絡・経穴名とその標準部位を定めるに至った。