日本鍼灸師会50年の歩み その3
日鍼会50周年記念誌 日本鍼灸師会50年の歩み その3
(45ページから49ページの一部まで)
医療金融公庫の貸付対象になる:
これまで鍼灸師の国家的低利融資の道は開かれていなかったが、関係省庁に融資方法の開拓を要望し、昭和48年8月から医療金融公庫の貸付対象に含められることになり、鍼灸師の治療所新設に明るい道を開いた。
鍼灸師賠償責任保険を発足:
鍼灸師の治療過誤による事故や紛争に中立公正に対処するため、保険制度の実現に向けて多くの検討と折衝を重ねた結果、大正海上火災保険株式会社との契約がまとまり、昭和48年11月16日に大蔵省から認可され鍼灸師賠償責任保険を発足させることができた。
武見医師会長と会見:
医療との併用給付、施術協定などの問題については、医師会の了解が必要であることから、丸茂参議院議員、渥美顧問を介して医師会と接触して理解を得るよう努力が重ねられ、医師会側も了承されたかにうかがえたので、料金改定と同時に解決するよう同49年2月5日を第1回とし、厚生省と精力的に再三再四会談を重ねたが、昭和49年2月19日の折衝において、厚生省が正式に医師会の意見を聞いたところ、鍼灸との併用給付は「時期尚早である」という回答であったため、この取扱いは延期せざるを得ないことになった。同日、その足で日本医師会を訪問し、武見会長、小池、重田両常任理事列席のもとで意見を伺ったところ、武見会長の見解の要約は次の如くであった。
(1)医療保険の技術系統の内に鍼灸を位置付けると、料金は定額になるおそれがあり、この制度内に鍼灸師が加わって苦しむべきでない。
(2)医学会が鍼灸に対し統一された見解を持たない現状においては、鍼灸と一般医療との併用給付には反対である。
(3)医師は鍼灸の効用その他について十分な知識を持たないので、適応症について同意することはできない。
(4)保険者は鍼灸の適否を定めるために、医師の同意書を要求する必要はない。
(5)鍼灸師は自由診療が許可されており、この線に沿った独自の保険制度を保険者に要求すべきである。
(2)医学会が鍼灸に対し統一された見解を持たない現状においては、鍼灸と一般医療との併用給付には反対である。
(3)医師は鍼灸の効用その他について十分な知識を持たないので、適応症について同意することはできない。
(4)保険者は鍼灸の適否を定めるために、医師の同意書を要求する必要はない。
(5)鍼灸師は自由診療が許可されており、この線に沿った独自の保険制度を保険者に要求すべきである。
この武見会長の意見は、実に明解率直で評価できるものであるが、現在の鍼灸師の立場としては当惑する内容で、保険運動を振出に戻して再検討しなければならない状況になった。
丸茂参議院議員が公約発表:
昭和49年4月15日、日本鍼灸師会通常総会が衆議院第議員会館において開催され、その席上で、顧問の丸茂重貞参議院議員が極めて重要な公約を読み上げられた。
それは日鍼会の最大要望である保険取扱いの支障を打開する3点について回答されたもので、「(1)同意書の簡易化は合法的であるから速やかに実現する。(2)一般医療と鍼灸の併用給付については実現に努力しなければならない。(3)知事と鍼灸師会との契約について努力する。」というものであった。今後その実施に向かって丸茂議員の誠意と活躍を大きく期待するところとなった。
丸茂公約に応える体制整備:
昭和49年5月18日、東京文化会館に於て、日鍼会、全鍼連の連絡協議会が開かれ、選挙対策と保険対策について協議をした。そのうち保険対策については、丸茂公約に応える体制整備として保険取扱い者の組織化を進め、当局から信頼される責任体制を確立することが必要であるので、過去にはいろいろな経緯もあったが、この際、日保会発足当時の原点に戻り、両師会共通の保険問題については全国的に窓口の一本化を図ることとなった。
日鍼会、全鍼連は共にその組織を崩すことなく、両師会所属のままで保険取扱い希望者のみを集め、両師会傘下の日保連(仮称)をつくる構想を立て、両師会は母会としてその育成に全力を尽くすことを申し合わせ、本年中に全国保険取扱者名簿を整備する方針を決めて、日保会に対しても格別な協力を要請した。
5月19日、広島市で開催された日保会総会において、幸い強力な賛成が得られたので、8月5日に日鍼会木下晴都会長、全鍼連永井秋夫会長連名の書簡「保険取扱い全国連合会組織の確立について」を全国各都道府県師会長に発送して協力を依頼した。
はり、きゅう保険取扱い基準を作成:
昭和49年7月21日、大阪府箕面市で開催された第4回日鍼会青年部全国集会は健保集会として開かれた。席上で井垣博夫保険部長は「保険取扱いの原則と現実と実際」と題して講演し、資料として「はり、きゅう保険取扱い基準」を作成して発表した。
この基準は、現行法の範囲内で法令、通達などを最大限に活かし、全国的に通用するよう作成したもので、これによって具体的取扱いの理解を促し、実施への意欲を高め全国的に十分活用されることを期待した。
鍼灸短期大学の設置基準が確立:
教育機関の整備については、鍼灸師の高度な教育について陳情を繰り返してきたところであるが、昭和49年に鍼灸短期大学の設置基準が文部省大学設置審議会の結論が得られ、鍼灸短期大学設置の法的根拠が確立した。
新事務所の開設:
昭和50年1月13日、事務所機能の充実のため、会長宅であった事務所を台東区根岸に開設し、専従の事務員を置いた。
日鍼会創立25周年記念式典:
昭和50年5月17日、日鍼会創立25周年記念式典が田中正巳厚生大臣、床次徳二衆議院議員、武見太郎日本医師会会長をはじめ政界、官界、業界の多数の来賓のご臨席を仰ぎ、番町共済会館にて盛大に挙行された。この式典では業界初の厚生大臣表彰が行われ、全国より選ばれた鍼灸界の功労者51名がその栄に浴した。また、同時に各県師会の功労者401名にも日本鍼灸師会会長表彰が行われた。
全国保険取扱い組織代表者会の開催:
保険取扱者(希望者を含む)の名簿整備は当初の予定より大幅に遅れたが、漸く全国の名簿が出揃ったので、昭和50年7月27日、東京、市ケ谷の私学会館において全国保険取扱い組織代表者会を開催した。7月20日までの名簿受付状況は、47都道府県の65組織から9,303名であって、代表者会当日は、全国43都府県よりl12名の出席があり、保険取扱いを志す、すべての団体の代表者が一同に会して協議を尽くした画期的な会議となり、保険取扱い全国連合組織の設立準備委員会を発足させ、諸準備を進めることになった。
日保会の発展的解散と日保連の設立:
昭和33年に結成し、全国保険取扱いの灯を守り統けてきた日保会は、より大きな全国規模の保険取扱組織の結成が確実となったので、50年8月23日富山県で開催した第17回日保会総会で新体制に移行するため発展的に解散した。また、50年12月7日、東京都千代田区永田町の薬業健保会館において日本保険鍼灸マッサージ師連盟(略称、日保連)設立総会を開き、全国47都道府県全部が参加し会員1万名を越える新しい保険取扱者の全国組織を設立した。会長に木下晴都日鍼会会長、会長代行に永井秋夫全鍼連会長を選出して、今後の進展が大いに期待されるところとなった。
昭和51年~60年
学校安全会の適用なる:
日本学校安全会は、文部省令により昭和35年に設立された特殊法人で、児童、生徒の学校の管理下における災害に対して必要な給付をする事業を行っている。昭和51年4月1日以降は、この給付対象に鍼灸治療が含まれることになり、5月25日、日安業第289号、日本学校安全会渋谷敬三理事長と、6月10日、日本鍼灸師会木下晴都会長との交換公文により実施が確認された。
柔道整復師非会員による抗議行動:
日保連は、保険取扱いの改善策として同意事務の簡素化、医療との併用給付、療養費の団体協定の実施を目指すものであるが、3点を同時に解決することは周囲の情勢から困難であるので、取扱いの基本的な確立を図ることを重視して団体協定の実現から進めるよう、厚生省とそのための事務折衝を行う段階に入っていた。ところが、昭和51年6月中旬に突如として日本柔道整復師会から不当な条件によって締め出されて、保険取扱いが十分にできない不満を持つ柔道整復師グループが、厚生省に対して行政的不合理を抗議する強硬な行動を取った。
このことに対し、厚生省は団体協定などの行政措置について法制局に見解を質した後、日本柔道整復師会に厳重な指示をして直ちに実行させ、事態は収拾されたが、このことによって、協定に対し極めて慎重になり、法律的責任を明確にするためには公益法人の団体でなければ協定をしないということが打ち出された。
日盲連が単独協定を陳情:
また、この年の10月には日盲連が厚生省に対して、日保連だけではなく、日盲連とも団体協定を結んで欲しいと陳情運動を行った。
このことから柔道整復師問題で団体協定の行政措置について極めて慎重になっている厚生省に、またも大きな衝撃を与え、業界は一丸となって対応しているということに不信感を植えつけて、協定締結には一層深刻な情勢となった。
この問題は、業界内に大きな反響を呼び、様々な議論が起こったが、厚生省に対する信頼を回復するため、各方面からの働きかけによって、今後は同一行動をとるよう友好的に話し合いをして、日保連の構成母体の中に日盲連を加える方向で解決することになった。
厚生省の協定方針:
協定をめぐる様々な動きのために、厚生省は愈々慎重さを加えたが、丸茂議員のご尽力によって、昭和52年1月に漸く厚生省は団体協定に対する態度を示し、特定のものに利益をもたらすような団体とは協定できないが、1業種が2つの団体にならないよう、確かな法人格のある公益団体とならば協定をする用意のあることを明らかにした。
ここに至り、従来と情勢が大きく変わって業界が行おうとしていた日保連方式で進めることはできなくなった。そこで直ちに1月29日に緊急中央委員会、並びに翌30日に第2回日保連総会を開いてこの実情を報告して全国代表の意見を聞いたところ、対応策については中央の判断に委ねられることになった。
協定対応体制を模索:
昭和52年2月13日、日鍼会、全鍼連は合同幹部会を開いて協定対応体制について協議し、厚生省の方針や折衝の過程を再検討し、更に将来展望についても十分思考を尽くし、あらゆる角度からみて、保険問題を別にしても、業界は全体としての転機に直面しているので、鍼灸とマッサージは専門団体として別々の考えで進めることによって、より発展が期待され、それぞれが当面する重要問題、危機対策を有効に処理し打開できるものと判断し、鍼灸師会とマッサージ師会の2大法人団体を結成し、両会の育成と協調のため全日本鍼灸マッサージ師会連盟をつくり、円満運営を図るという合同試案を決定した。
その後、2月16日に国会内において、丸茂重貞参議院議員、三浦大輔厚生省保険局医療課長、木下晴都日鍼会会長、永井秋男全鍼連会長による4者会談が開かれ、協定対応の業界体制として合同試案の方針が確認され、丸茂先生から両会長に念押しをされたのに対し両会長はそれぞれ確約をし、三浦課長も約束されたので、この方向で、組織を整備強化して協定の成立を図るよう努力することになった。そこで、2月23日、私学会館において、日鍼会、全鍼連、日盲連、東京都鍼灸師会、東京都鍼灸按マッサージ師会の5団体、18名が集まって、業界懇談会を開き、厚生省の意向をふまえ検討した結果、合同試案による業界組織再編成を進めることに意見の一致をみた。