No.5 「ええ人生やった」その一言のために
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おおい町国保名田庄診療所所長 中村伸一先生 (プロフィールはこちら)
地域に、そして人に支えられて。
名田庄には、未だに“お互いさま”文化が残っています。私自身が病気になり、無理できない体になってしまった時です。「病み上がりだから、救急対応しません」と発信したわけではないのですが、いわゆるコンビニ受診を自然と住民の方が控えてくれて・・・私を守ってくれました。自分は村の人に支えられているのだと、その時実感しました。
家族のつながりが生んだ地域の連携。
ただ、社会資源も少ない田舎の小さな村ですから、そのためには連携することが大事なんですね。その連携に力を発揮したのが、名田庄に息づく“お互いさま”という考え方でした。医師、看護師、保健師、役場の福祉担当者、介護職、住民ボランティア・・・村中が一つにまとまろうとしていたときです、ボランティアグループ初代会長の言葉が、とても印象的でした。「ええか、みんな。元気なうちは人のお世話をするけど、自分がへばってきたら、素直に人のお世話になるんやで」。プライドが高い人には、人の世話をするけど、人に世話されるのは嫌だという人が多いんです。そうじゃない。一生懸命世話もするけど、弱ってきたら素直に人のお世話も受けようよ、ということをおっしゃっている。本当にいい言葉だと思います。
こういうことは“お互いさま”なんだ。
幸いこの方は、後遺症なく退院されて、80歳を過ぎた今でもお元気だそうです。後日「何故あのとき私を許してくれたんですか?」とご主人に聞いてみたのですが、「だって先生、一生懸命やっていたよ。あんなに真剣にやっている人を見ると、結果はどうあれ、やっぱり責められないよ」と話してくれました。すごくうれしかったです。このことが名田庄に留まる一番の理由になりました。
相互不信から相互信頼の社会へ。
がんを看取る、家で最期を迎える。
がんの在宅死は難しいと言います。問題は2つあって・・・一つは家庭の介護環境、もう一つは痛みの緩和方法です。ただ、それ以上に“支える”力が大切なのだと、しばしば痛感させられる時があります。これから、がんで亡くなられた方のお話を紹介しますが、どなたも悔いのない最期を迎えられたように思います。
家の持つ力。
ところが、家に帰ってきてお孫さんの出迎えを受けたとたん、にっこり笑って目に涙を浮かべていました。そして、飲まず食わずの点滴だけで3週間、家族とのお別れの時間を作って最期を迎えたんですね。途中で死ぬかもしれないと言われた人が・・・“家の力”としか言いようがありません。治療は何も変わっていない・・・ただ、場所を家に移しただけです。それだけで生命が蘇ってくるということが・・・確かにあるのです。
家にいたい。
1年はもちませんでしたが、約12カ月、347日目に自宅で逝かれました。1カ月の入院で10カ月の間、ご家庭で家族とお別れの時間を作ることができたのです。「できるだけ家にいたい」・・・その思いに応えられたのは、私たち医師の治療だけではなく、家族の“支え”があったからだと思っています。
治療をしないという選択。
そして初診から4年、83歳で眠るようにして亡くなっていきました。83歳まで、がん自体の治療は何もしなかったですけど、この方は不幸な人生を歩んだと思いますか?亡くなる4カ月前、最後のお正月に家族で撮った写真を見てください。ひ孫さんをあやすときのおばあちゃんの顔、にっこりした笑顔です。この写真は、娘さんが「うちの母は本当に幸せな最期を送りました。だから、中村先生、全国どこでも講演のときは、この写真を見せてください。そして、みんなに自慢してください。こんないい死に方をしています、うちの母は」。そう言い添えて提供してくれたものです。ときに治療をしない医療もあると、私思います。
人生にガイドラインはない。
命のリアリティを感じる。
昔は生老病死を家で送りました。今は病院で生まれるのがほとんどで、また、多くの死は病院で迎えられます。名田庄の人たちが在宅にこだわるから、私も在宅死にこだわるのですが、家という日常生活の場で息を引き取るということは、もちろん本人のためです。でも、それだけじゃない。そこに住む子どもや孫に、命のリアリティを伝える大切な儀式だと思うんですね。そこは、本当に大事なことだと思います。
おおい町国保名田庄診療所所長 中村伸一先生プロフィール