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けんこう定期便

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No.5 「ええ人生やった」その一言のために

おおい町国保名田庄診療所所長 中村伸一先生 (プロフィールはこちら)

NHKの人気番組「プロフェッショナル仕事の流儀」で、地域医療の“スペシャリスト”として紹介され、マスコミに取り上げられる機会も多くなったという中村伸一先生。先生の取り組みを拝見すると、最近は何か大切なことを忘れてはいないかと、ふと気づかされます。今回、皆さんとともに先生のお話を伺いながら、地域医療に根ざす医療人としての心構えを新たにしていきたいと思います。

地域に、そして人に支えられて。

盛大な拍手でお迎えいただいてありがとうございます。中村です。おかげさまで、ここ1年ほど、マスコミに取材されることが多くなりました。福井の片田舎で細々と診療所をやっているだけなのに、どうしてこんなに騒がれるか・・・よくわからないですけど。ただ、言えるのは「地域に必要なことをやってきた」とは思います。そのために、地域の方、一人一人と良好な関係を築くように努力してきました。努力というのもおこがましいですね、当たり前のことを、ただ当たり前にやってきただけです。すごいことなど、ひとつもしていません。むしろ、私自身が地域の人々から支えられていると言った方が正しいかもしれませんね。

名田庄には、未だに“お互いさま”文化が残っています。私自身が病気になり、無理できない体になってしまった時です。「病み上がりだから、救急対応しません」と発信したわけではないのですが、いわゆるコンビニ受診を自然と住民の方が控えてくれて・・・私を守ってくれました。自分は村の人に支えられているのだと、その時実感しました。

昭和38年、福井県三国町生まれ。バンド活動など、学生時代を楽しまれた先生が、活躍の舞台となる「名田庄村」に赴任され、そこに留まる決意をされた裏側には、名田庄の持つ文化に加えて心温まる話があったようです。

家族のつながりが生んだ地域の連携。

福井県で一番大きい「福井県立病院」で2年間の研修を終えて、医者になって3年目に「名田庄診療所」に赴任しました。たかだか3年目の“駈け出し”が、村にたった一つしかない診療所、しかも医師が一人しかいないところに行ったわけです・・・毎日毎日、本当に不安でした。今になって振り返ると、そんな不安な医者に診られる患者さんは、もっと不安だったんじゃないかと思います。「よくぞ付き合ってくれました(笑)」の思いです。

名田庄に赴任直後で感じたことは、3世代、4世代同居が当たり前ということで、家族のつながりが強いんですね。そして、ほとんどの人が家で死にたいと思っているという事実。そのために家族も努力したいと思っている・・・そういう名田庄の人たちと付き合っていくうちに、家で暮らす人たちを支えたいと思うようになりました。

ただ、社会資源も少ない田舎の小さな村ですから、そのためには連携することが大事なんですね。その連携に力を発揮したのが、名田庄に息づく“お互いさま”という考え方でした。医師、看護師、保健師、役場の福祉担当者、介護職、住民ボランティア・・・村中が一つにまとまろうとしていたときです、ボランティアグループ初代会長の言葉が、とても印象的でした。「ええか、みんな。元気なうちは人のお世話をするけど、自分がへばってきたら、素直に人のお世話になるんやで」。プライドが高い人には、人の世話をするけど、人に世話されるのは嫌だという人が多いんです。そうじゃない。一生懸命世話もするけど、弱ってきたら素直に人のお世話も受けようよ、ということをおっしゃっている。本当にいい言葉だと思います。

こういうことは“お互いさま”なんだ。

「いい感じで、みんながまとまってきたな」と思っていた頃です。一生忘れることのできない事件が起きました。非典型的な症状であったものの、“くも膜下出血”という重大な病気を、医師である私は見逃してしまったのです。京都から名田庄にやってきた60過ぎの女性の方でした。疲れとアルコールによる肩こりと嘔吐・・・夜中の往診でそう診断、処置したのが間違っていたのです。二度目の往診に行ったときには意識朦朧の状態でした。急いで応急処置をして、救急車で運んだ・・・結果は“くも膜下出血”。もう頭がパニック状態でした。親戚にあたる家のご主人に誤診したことを詫びると、「いや、中村先生、こっちこそ夜中に何度も呼び出して悪かった。一生懸命やっても間違いっていうのは誰にでもあるんだよ。こういうことはお互いさまなんだ」って言ってくれたんですね。責められるものとばかり思っていたのに・・・意外でした。

幸いこの方は、後遺症なく退院されて、80歳を過ぎた今でもお元気だそうです。後日「何故あのとき私を許してくれたんですか?」とご主人に聞いてみたのですが、「だって先生、一生懸命やっていたよ。あんなに真剣にやっている人を見ると、結果はどうあれ、やっぱり責められないよ」と話してくれました。すごくうれしかったです。このことが名田庄に留まる一番の理由になりました。

相互不信から相互信頼の社会へ。

今、医療崩壊などと“ありがたくない”キーワードをよく耳にしますが、これは医者と患者の相互不信が招いている気がしてなりません。そこで、医療崩壊の中から新たな社会モデルを創ることを考えました。相互不信から相互信頼の社会へ・・・それには、どうしたらいいか。“全国名田庄化計画”です(笑)。日本全国、名田庄のような支え、お互いさまの社会にしていこうということです。地域医療の、というよりも地域社会の一つの理想形がそこにあるのではないでしょうか。
そんな名田庄に暮らす人々にも、ひとしく最期の時が訪れます。今日の日本では、避けて通ることのできない“がん”との対峙。ただ、そこにも名田庄らしく“家”を中心にした家族の物語が紡がれていました。「ええ人生やった」と幕を引く・・・そこには患者さんと家族、医師の“信頼関係”が見え隠れしています。

がんを看取る、家で最期を迎える。

名田庄での“在宅死亡率”は約4割ですから、全国平均のだいたい3倍以上になります。その1/6の方が、がんでお亡くなりになっている。日本人の2人に1人ががんになって、亡くなっていく方の3人の1人ががんという時代です。だから、在宅でのがん治療はとても大事です。がんが看取れないということでは駄目なんですね。

がんの在宅死は難しいと言います。問題は2つあって・・・一つは家庭の介護環境、もう一つは痛みの緩和方法です。ただ、それ以上に“支える”力が大切なのだと、しばしば痛感させられる時があります。これから、がんで亡くなられた方のお話を紹介しますが、どなたも悔いのない最期を迎えられたように思います。

家の持つ力。

初めは73歳の女性、かなり進行した大腸がんでした。3~4回入退院を繰り返して、最後は病院のベッドで亡くなるのを待つだけという状態。すでに飲まず食わず、点滴だけでした。すると突然、本人とご主人が家に帰りたいと言い始めました。帰るなら今しかないと。病院の先生が言うには、かなり衰弱しているので、帰宅の途中、車の中で息が絶えるかもしれないという体なのに、です。

ところが、家に帰ってきてお孫さんの出迎えを受けたとたん、にっこり笑って目に涙を浮かべていました。そして、飲まず食わずの点滴だけで3週間、家族とのお別れの時間を作って最期を迎えたんですね。途中で死ぬかもしれないと言われた人が・・・“家の力”としか言いようがありません。治療は何も変わっていない・・・ただ、場所を家に移しただけです。それだけで生命が蘇ってくるということが・・・確かにあるのです。

家にいたい。

次は、61歳男性のお話です。診療所の近くに住んでいる方で、初診で診断したのは通常では考えられないほどの、ひどく進行した大腸がんの多発肝転移でした。すべて、ありのままを話したら、本人がこんな質問をしてきました。「中村先生、オレはあとどのぐらい生きられるんだ」。正直答えにくいですし、非常につらい。熟慮の末、私は「3カ月です」と伝えました。彼はしばらく考えてから、「先生、オレ治るんだったら1年でも2年でも入院しているけど、治らないなら、2カ月の延命目的で1カ月も入院したくないな。できるだけ家にいたいんだよ」と言ったのです。協力してくれる先生と相談して、とりあえず1カ月は入院してもらい、あとは自宅で抗がん剤の注射を繰り返す治療をしようということになりました。

1年はもちませんでしたが、約12カ月、347日目に自宅で逝かれました。1カ月の入院で10カ月の間、ご家庭で家族とお別れの時間を作ることができたのです。「できるだけ家にいたい」・・・その思いに応えられたのは、私たち医師の治療だけではなく、家族の“支え”があったからだと思っています。

治療をしないという選択。

最後の話は、がんの治療をしなかったケースです。79歳、認知症で、5分前の記憶もないぐらいぼけたおばあちゃんでした。ショートスティを使うために受けた結核の検査で、肺がんが見つかったのです。私は、認知症の方にがんを告知しません。代わりに娘さんに尋ねました・・・「どうしましょうか?」と。娘さんの答えは「・・・先生、このがんは見なかったことにしてください」でした。医者というのは、何かしないということに罪悪感を持ってしまうものですが・・・結局、数種類の飲み薬と最後の4日間の在宅酸素療法以外の治療は、何もしませんでした。

そして初診から4年、83歳で眠るようにして亡くなっていきました。83歳まで、がん自体の治療は何もしなかったですけど、この方は不幸な人生を歩んだと思いますか?亡くなる4カ月前、最後のお正月に家族で撮った写真を見てください。ひ孫さんをあやすときのおばあちゃんの顔、にっこりした笑顔です。この写真は、娘さんが「うちの母は本当に幸せな最期を送りました。だから、中村先生、全国どこでも講演のときは、この写真を見せてください。そして、みんなに自慢してください。こんないい死に方をしています、うちの母は」。そう言い添えて提供してくれたものです。ときに治療をしない医療もあると、私思います。

在宅生活を支える結果としてがん患者の最期をさまざまに看取ってきた中村先生。病院のいわゆる専門医とは「スタンスが違う」と語り、自らを“総合医”を称する先生の考え方には、我々鍼灸師にも通じるものがあります。最後に、人生を“家”で終えることの大切な意味についてお話しいただきました。

人生にガイドラインはない。

在宅でも、がんと徹底的に戦ったり、あるいは逆に戦わなかったり。こういったエピソードを話すと、医学生や研修医たちは、その治療方法・方針に関心が向くんですね。非常に真面目なのですが、私は決まって「医学とかにはガイドラインがあるけど、人生にガイドラインはないよ」という話をします。患者さんの人生の中で、入院という極めて短期間、非日常的な所で接触する“専門医”とは違い私たち地域の“総合医”というのは、そこに暮らす患者さんの人生に寄り添うようにして診療すること、これが大切だと思います。

命のリアリティを感じる。

私たち医者、メディカルドクターは、専門性を追求する専門医を育てるということを主目的にしていましたから、私みたいな“総合医”というのは、医者の中では異端です。ただ、鍼灸の先生の多くの方は、こちらじゃないでしょうか?私たちとスタンスは似ていると思いますね。もちろん専門医と総合医はお互い対立する関係じゃなくて、補完しあう関係です。

昔は生老病死を家で送りました。今は病院で生まれるのがほとんどで、また、多くの死は病院で迎えられます。名田庄の人たちが在宅にこだわるから、私も在宅死にこだわるのですが、家という日常生活の場で息を引き取るということは、もちろん本人のためです。でも、それだけじゃない。そこに住む子どもや孫に、命のリアリティを伝える大切な儀式だと思うんですね。そこは、本当に大事なことだと思います。

「“医療についての流儀”は何か?」の問いかけに「当たり前のことを当たり前のようにやる」と答えてから「あとは海草のように生きることですね。海草のように生きる」と話された中村先生。普段診療室で迷ったり悩んだりしても、決して根っこは動かさない、ということのようです。当たり前のことをやりつつ、揺らいでも信念は動かさない…言葉では簡単ですが、実践されている先生が語られると重みが違います。忘れずに心にとどめておきたい一言です。
 

おおい町国保名田庄診療所所長 中村伸一先生プロフィール

平成元年に自治医科大学を卒業後、福井県立病院・診療部(スーパーローテイト研修)、平成3年から国保名田庄診療所所長。現在、保健医療福祉総合施設あっとほ~むいきいき館のジェネラルマネジャーや全国国保診療施設協議会理事、自治医科大学臨床教授を兼任。その他、手書き式電子カルテの開発にも携わり、21年4月に地域医療の教科書「地域医療テキスト(医学書院)」を出版(共著)。21年12月に「プロフェッショナル・仕事の流儀コミック版・医療の現場に立つ者たち(イーストプレス)」、22年6月に「自宅で大往生―『ええ人生やった』と言うために」(中公新書ラクレ)を刊行。